元寇防塁跡の情報は、2016年3月時点のものです。
元寇防塁跡 博多湾に蒙古襲来!
今から約750年前(文永11年、西暦1274年)、九州北部は、当時ユーラシア大陸のほぼ全土を支配した蒙古軍(フビライ・ハン)と、その属国である高麗の攻撃を受けたのでした。
博多に蒙古(元)が襲来したのでした。それまでの過去最大の国難に襲われたのです。
2度に渡る蒙古の襲来では、対馬と壱岐の全島民、北部九州の一部の住人らが虐殺され、生け捕りされた人たちは手の甲に穴を開けられ数珠つなぎ(ガンガンつなぎ)にされ奴隷として売られたといいます。
最初の「文永の役」では元軍は博多に上陸。早良から上陸した元軍敵主力部隊は赤坂に集結、博多の町も大きな被害を受けたのでした。
そして元軍を向かい打つべく日本軍も博多に集結、赤坂での戦で攻撃に転じ元軍を敗走させたのでした。
その「文永の役」後、元軍の再来を防御すべく構築したのがこの防塁。

(蒙古襲来絵詞 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
博多湾の海岸線20kmに渡って、高さ約3mの石築地(いしついじ)を築いたのでした。
そして「文永の役」から7年後の弘安4年(西暦1281年)、蒙古軍が再度襲来するのでした。これが「弘安の役」。
俗に神風が吹いて元軍を全滅させたと言われる戦いです。
そして「弘安の役」では、この防塁が大変役に立ったようです。
詳細はwikipediaや東区の県庁横にある「
元寇史料館」で見て下さいね。
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今津の松原の中にあります

当時から少し海岸線も変わっていると思うのですが、今津(いまづ)に残っている元寇防塁跡はこの松原の中にあります。
車は入ることは出来ないので、すぐ近くの「今津運動公園」に車を駐めて歩くと良いです。駐車場から徒歩3分程度です。

半分ほど歩いたところで、海岸に通じる道から横道に入ります。

海岸と平行に歩いていると、途中にはアート作品が?
よく見ると文字が書かれてあります。「保安林を大切に」だそうです。
元寇防塁跡 発見!

金網に囲まれた史蹟を発見。これがその元軍を跳ね返した防塁です。
長い年月を経て砂に埋もれていたのを掘り返したものです。
金網の外の部分にも石垣がでているのがわかりますね。砂に埋もれていますが、他の部分もずっと続いているようです。

この元寇防塁は、鎌倉幕府が九州諸国の御家人に命じて作らせたものです。
防塁の横にある説明板によりますと、今津の防塁は、日向国(宮崎)と大隅国(鹿児島)が担当して作ったそうです。

防塁は、底辺3m、上辺2m、高さ約3mの石垣です。
この石垣が、博多湾を中心に、東は香椎宮あたり西は今津の浜あたりまで総全長約20kmに渡り作られたのです。
元寇防塁は、現在でも福岡市内の西新の
西南学院のキャンパス内や、
姪浜、生の松原、今宿でも見ることが出来ますが、
ここ今津の防塁がほぼ完全な形で残っており、長さ200mに渡って復元されています。
福岡市内には、警固(けご)や防塁前と言った地名もあり、大陸からの侵略に対しての最前線の地だったんですね。
現在でも地政学的には変わらないわけで、半島からの侵略や難民対策をしておかねばならないと思います。
亡くなられた多くの英霊に感謝です。
元寇防塁跡(今津)の情報は、2016年3月時点のものです。
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